問題なのは、コンテンツの空洞化である。社会に影響を与える気もなければ、自らの手綱を社会に渡してしまっているコンテンツ。例えば「100 日後に彼女を手にいれる」「30 代独身女性の~生活」といったコンテンツ。正直だからなんなんだよ、という話でしかない。しかも放っておけば、「応援してくれている人のためにも!」などとほざきだすから困る。困りすぎて Instagram に 1 日 10 分の時間制限をかけてしまった。
vlog もそれに近い。ありふれた他人の生活と、そこに映し出された苦悩の記録を 10 分以上も見続けることなど、今の私には到底できるはずもない。(もちろん、小さく見えて大きな苦悩ではあるので、それ自体を軽視しているわけではない) 唯一見ていられるのは New Jeans ぐらいだ。なぜなら New Jeans だからだ。
もうひとつ。「売れるために拡散して」などと堂々と謳い、オリジナル作品を披露してしまう人々も乗れない。彼らは既に社会に手綱を渡してしまっているから、仮に売れても、歴史には残らないだろう。
そう。歴史に残らない。それが全てではないが、その気概がない!最近の若者はこれだからいけない!!しゃきっとせんか!!!
などと言っても仕方がないので ”代孝”をしよう。100 年後、あるいはその先もずっと残る空洞化されたコンテンツのオルタナは何かを考えよう。
一行にまとめると、”予告編のもつ制限” の中で、最小限の ”プロセス” を見せつつ、”結果 (= 本編) を予告編として描き続ける” というコンテンツだ。
ひとつずつ摘もう。まずは ”予告編の持つ制限” について。
一般に予告編といえば、既にある長尺のドラマや映画を切り抜いた広告のことを指す。基本 1 - 2 分の短尺であるから、その点ショートコンテンツ時代にはぴったりだろう。加えて、予告編は多くは語らない。というよりも語れない。つまり、語ってはいけないという ”制限” を有している。これは同時に、先に示した「応援してくれている人のためにも」などとほざいたり、社会に手綱を渡したりする行為を、ある程度制限してくれる。
ふたつめは、“プロセス”。我々は “結果” だけでなく、”プロセス” 自体にコンテンツの価値を見出すことが多い。例えば、アイドルやブレイキングダウンのオーディション。これらはその合否に関わらず、人々に笑いや感動や興奮を届ける。同時に、結果として生み出されたコンテンツやキャラクターの強度はかなり高い。
最後は “結果 (= 本編) を予告編として描き続ける” である。本編とは、すなわち予告編の ”結果”であるから、本編があるとすれば、予告編は必要である。
重要なのは予告編と本編との相関で、たとえば予告編が面白くても、映画はつまらなかったりする。言い換えれば、本編がつまらなくても、予告編はいくらでも面白くできる。
もとより vlog 的なコンテンツは、性質上つまらない。それは vlog はただの他人の生活の記録でしかなく、しかもそれが本編になっているからだ。しかし、幸いにも vlog は生活が続く限り、作り続けることができる。つまり “続編” が作れる。単発の映画であれば本編の重要度は増すが、人生はウォーキングデッドばりに長い、つまらない回があったっていささか問題ではない。
予告編を面白くするには、いくつもの伏線を遡って散りばめなければならないし、来る本編でそれらを回収しなければならない。vlog に置き換えて言えば、今後起こるであろう未来を先に想起し、それを元に伏線を散りばめていく。予告編はあくまでも “予告” であるから、たとえ本編が途中でも作ることができる。つまり、予告編を先に出し、本編を後から成立させることだってできるということだ。
そうして海外ドラマでいうところの “シーズン” をいくつか完遂した暁には、その人間は “覇王” として、あるいは “大谷翔平” として、歴史に名が刻まれることになるだろう。
以上が空洞化コンテンツのオルタナのコアである。もちろん、ほかにも重要な要素はたくさんある (何をどう記録するかといったアートや哲学の部分) 。しかし、これ以上は語らない。語れないのだ。